生放送「散るぞ悲しき~栗林忠道中将の訣別電文」

次回の放送は令和7年8月10日 10:00からです

番組の趣旨

「硫黄島の戦い」は、日米合わせて戦死者2万6千人、戦傷者2万3千人、日本兵の95%が戦死するという壮絶な戦いを繰り広げました。アメリカ軍に「5日で落ちる」と言われた「硫黄島」は、実に36日間も持ちこたえます。その最期の日、総司令官栗林忠道中将は、部下を率いて突撃攻撃を行い、「硫黄島の戦い」は、幕を閉じました。戦闘の後、敵将の敢闘ぶりに敬意を表した米軍が遺体を捜索しましたが、階級章を外し、名前も消していたため、発見できませんでした。栗林の遺体は、部下の兵士と同じく、誰の骨とも分からぬ骨として、今も「硫黄島」に眠っているのです。そして、今も硫黄が噴き出るため、1万2千体もの遺骨が未収集のままになっている「硫黄島」は、島全体が大きなお墓となっているのです。

そんな「硫黄島」を平成6年に慰霊のために行幸された天皇陛下(現上皇陛下)は、今もなお硫黄が噴き出るその島を、皇后陛下(現上皇后陛下)と共に一周なさって、こう詠まれました。

精魂を 込め戦ひしい人 未だ地下に眠りて 島は悲しき

硫黄の噴き出る中、精魂込めて戦った戦死者が未だに硫黄の中に眠っている硫黄島は悲しいと、戦死者に対する鎮魂の深い御心のお歌だと拝されます。

硫黄島は東京都に属し、本土防衛の要となる拠点の一つだったにも拘らず、当時の日本には戦艦も戦闘機も殆どなく、硫黄島守備隊は孤立無援の状態となり、米軍の戦艦と爆撃機からの大量の砲弾と爆弾を落とされ、守備隊の数倍もの陣容を誇る海兵隊に攻め込まれてしまいました。

東京まで約1200キロ、しかも長い滑走路を持つ飛行場があるこの島が、もし米軍に占領されることにでもなれば、戦闘機P51のまたとない基地となります。そうすれば、マリアナ基地の爆撃機B29との協同作戦によって、日本本土の制空権は米軍の手に握られてしまいます。

だからこそ、栗林中将指揮の第109師団を主力に、2万9千余りの将兵を送り、鉄壁の防衛陣を布かないといけなかったのです。しかも、硫黄島は火山島で、硫黄ガスの噴出で、人が住むことすら容易でない劣悪な環境にあり、更に日本軍守備隊は、兵なし、水なし、食料なし、という状態でした。

そんな、劣悪な環境下にあって、硫黄島総指揮官 栗林忠道中将が目論んだのは、出来るだけ持ちこたえ、上陸してくる米軍に出来る限りの損害を与えることでした。そのため、地下トンネルや塹壕を掘り、守備隊は中に潜み、米軍の上陸をじっと待つ戦術でした。島の様子を一変させる程の米軍の猛爆撃の間も、硫黄島守備隊は、猛暑の地下にもぐり、トンネルを掘り続けました。その結果、栗林中将の戦術が功を奏し、米軍上陸後、一ヶ月に亙って日本軍は組織的反撃が出来たのです。

しかし、これほど頑強な抵抗を示し、時間稼ぎをしながらも、ついに本土からの支援はなく、最後は2万を超える日本兵が戦死し、今でも1万人を超える兵士の遺体がトンネルの中に埋まっているのです。

この「硫黄島」の栗林中将のお話を通して思うのは、数百万の日本人の命を奪った、いや世界数千万の命を奪った先の大戦が、今や歴史のベールの彼方に消えかかろうとしている事です。戦争が遠くなればなるほど、戦争の悲惨さが薄れてゆけばゆくほど、一層戦争の悲惨さを明らかにしてゆく努力が必要になるのではないでしょうか。「戦争の中での人間の記録」を、絶えず掘り起して行くことは、大切なことだと思います。

今年は、大東亜戦争が終結して80年に当たります。80年という年月は、大きなものです。いまや、日本国民のほとんどが戦後生まれなのです。この、平和な時代に生まれ、戦争を知らずに老人になって行くということが、どれほど素晴らしく、幸せなことであるかと言う事を、私たちはもっと知らなければならないのだと思っています。

そこで今回は、特別番組として『終戦80年~散るぞ悲しき 硫黄島最期の戦い』をテーマに、最悪の状態で、なぜ栗林中将と硫黄島守備隊はあのように戦えたのか、その本質について視聴者の皆様と共に考えて参りたいと思います。

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